位置・交通
沖縄県は、日本の南西端に位置し、沖縄本島、宮古島、西表島をはじめ大小150(1ha以上)の島々から形成される。そのうちの42が有人島である。面積は2,267平方キロメートルであり、可住地面積は49%となっている。また、沖縄県は日本唯一の「離島県」である。沖縄県の県庁所在地である那覇市から東京までの直線距離は1,554km、福岡まで861km、鹿児島660kmとなっている。一方、東アジア地域までの距離は、台北まで630km、上海まで630km、香港1,440km等となっている。沖縄からの空路による所要時間は札幌まで約3時間、仙台まで約2時間30分、東京まで約2時間10分、名古屋まで約2時間、大阪まで約1時間50分、福岡まで約1時間40分となっている。
気候・自然
沖縄県の気候は、黒潮の影響を強く受けており、日本で唯一の亜熱帯海洋性気候に属している。気温は、年平均22.4度と1年を通じて温暖で、サンゴ礁の青い海、貴重な野生動植物が生息するなど、優れた自然環境に恵まれている。年平均降水量は、約2,037mmで全国平均(1,702mm)を20%を上回っており、全国でも比較的雨量の多い地域となっている。
人口・長寿
1972年の人口は約96万人であったが、1998年現在130万人となり(住民基本台帳人口)、毎年増加している。人口の約90%は沖縄本島に居住し、那覇市を中心とした中南部地域に人口は集中している。沖縄の1996年時点における男女をあわせて百歳以上長寿率は22.14で、この数値は全国平均5.87と比較して約4倍の数値を示しており、都道府県比較でも第一位となっている。
工業の現状
1998年の15歳以上の人口は101万4千人、労働力人口は60万2千人、就業者数56万6千人である。1998年工業統計調査によると、事業所数は2,812社、従業員数は27,881人、製造出荷額は59,785,768万円である。健康食品関係の1998年度の売上高は70億4千2百万円で、年々増加している。
沖縄健康土壌のひみつ
沖縄は隆起サンゴ礁から出来ている島である。サンゴ礁とはカルシウムのかたまりみたいな物、当然にその土壌から生まれる植物はカルシウムを多く含んだ超健康植物。しかし、それだけ「薬草の宝庫」と呼ばれるわけではない。亜熱帯気候の沖縄の植物は強い紫外線を受けているため、紫外線で発生する活性酸素を抑制する機能が備わっている。その植物を食べて育つ動物たちもさぞかし健康なことだろう。
歴史
「沖縄」に関する史書の記述は、7世紀の「隋書」に「琉求」と言う名で登場するのが初めてではないかといわれている。実際に沖縄の島々に人が住みはじめたのは、今から約3万年以上も前の旧石器時代のことである。旧石器時代の次に来るのが、日本の縄文時代や弥生時代に相当する貝塚時代である。この時代の後期の遺跡からは、縄文式土器や弥生式土器とともに、紀元前2〜3世紀に中国の戦国時代に流通した明刀銭が出土し、九州の弥生時代の遺跡から出土する貝製の腕輪は沖縄近海の貝を利用したものといわれていることを考え合わせると、この時代すでに日本や中国との交易があったことがうかがわれる。
14世紀には、領土をめぐる小領主の争いが始まり、やがて沖縄本島には北山、中山、南山と呼ばれる小王朝がうまれた。これらの王朝は、相次いで中国の明に入貢している。
この三山を統一したのが本島南部の尚巴志で、王城を首里に移し、第一尚氏とよばれる王朝を樹立した。
その後、勢力を奄美地方から宮古・八重山地方まで拡大し、統治制度を確立した。また、明国との明国との関係もより親密になり、南方のシャム、マラッカの交易を行っている。
17世紀初頭、日本における幕藩体制の確立にともない、琉球王朝にもその影響が及んだ。琉球王朝は、薩摩藩の支配下に置かれることになり、奄美諸島が割譲、外国との貿易が統制されることになった。
ペリー来航後、明治維新を迎えると、明治政府は琉球と中国清との外交関係を断ち、沖縄県を設置する「琉球処分」を断行し、400年続いた琉球王朝は形式的にも終わりを告げることとなる。
太平洋戦争末期昭和20年4月米軍が沖縄へ上陸、3ヶ月にもおよぶ地上戦が行われ、およそ20万余の戦死者を出した。敗戦後、本土と切り離され米軍の統治下に置かれることになる。そして、昭和47年5月15日、沖縄は日本復帰となる。
伝統工芸
14世紀から16世紀にかけて琉球王国時代に貿易立国を国是として栄えた沖縄は、諸外国の影響を受けながら種々の素晴らしい工芸を生み出した。薩摩支配後は、殖産工業として工芸の振興に力を入れ、国内需要のほか、中国や日本への輸出または献上品として制作した。それらは、王府の厳しい監督のもとに制作されたため、技術的にも高度に発達し、首里、那覇を中心に大きく発展、幾百年後の今日まで沖縄独特の伝統工芸として受け継がれている。
このように諸外国の工芸の良い面を吸収、消化し、かつ沖縄の気候、風土に適するように作られたこれらの伝統工芸品は、色彩、形、図柄も多彩で独特の味わいをもつ。この特色は沖縄の明るい生活環境、雄大な海洋を背景とする地理的条件などから生み出されたものといえよう。
壺屋焼−沖縄の陶器技術は、14,5世紀頃、中国や南方諸島との交流の中から伝来した。琉球の「泡盛」醸造と関わりのある南蛮焼の技術もその頃入って来たと考えられている。17世紀後半、琉球王府は地方にあった窯場を壺屋に統合し、陶器産業の振興を図った。従って壺屋はおよそ300年の歴史を有し、今も伝統の火を燃やし続けていることになる。昭和60年、陶工の金城次郎氏が人間国宝に認定され、壺屋焼が一躍全国的に注目を集めた。
びん型−印度やジャワ更紗の技法を取り入れ、沖縄の明るい気候風土の中で育まれ、やがて華麗にして典雅な琉球独特のびん型ができた。その後首里王府の保護の下で中国の型紙の技法の導入されるなど、東洋文化の枠を吸収し更に優れた華布に昇華した。
模様は、多種多様だが、大別すると首里型と那覇型に分かれる。昭和59年5月、通産大臣より伝統工芸品に指定された。
漆器−沖縄のもつ亜熱帯気候、高めの平均気温と湿度など漆器生産地として希にみる恵まれた気候条件と漆器木地として狂いや亀裂が生じないデイゴ、シタマキ、木目仕上げの美しいセンダン、ガジュマル等の優秀な素材がある。また、近年は、サトウキビの繊維を利用したバカス素材も開発された。沖縄の朱塗りの鮮明な美しさは、他の追随を許さないが、黒塗りとのコントラストは大胆かつ、斬新で琉球漆器の大きな特色である。昭和61年3月、通産大臣より伝統工芸品に指定された。
首里織−那覇の織物は、大きく分けて二つある。泊の伝統を受け継ぐ紺絣、白絣で商人や庶民に親しまれた藍染めの絣と、首里の士族階級に着用された多色染めの気品高い織物の二つである。豊かな色調と着心地の良さ、布の丈夫さなど首里織りが評価されているのも、沖縄の自然の恵みを受けた豊かな素材を幅広く生かし、その工程もすべて人間の心をかよわせた手仕事によって織り上げているからである。
琉球ガラス−数ある沖縄の伝統工芸の中で、最も歴史の浅いのがガラス工芸で、脚光を浴びてきたのは戦後、米国駐留軍の需要が多くなってからである。
沖縄ガラスの特徴は、材料としてくず瓶を使うため、他のガラス器に見られるようなガラス特有の透明感や冷たさ、繊細さはなく、むしろくすんだ色や気泡があっても意に介しない素材なところにある。また、色は淡水色、みどり色、茶色、薄茶色など七種類もあって、これも琉球ガラスの特徴の一つになっている。
製法は、息を吹き入れてくるくる廻して形成する「宙吹き法」と木型あるいは金型を用いる「型吹き法」の二通りの工法がある。
(資料抜粋:那覇商工会議書発行「那覇市経済早わかり」)
(資料抜粋:沖縄県健康食品産業協議会発行「長寿の島」)